有機ゲルマニウムに魅せられて
 
第九回 新たな歴史のはじまり 2006/3/22
 

★自らの身体で安全性と効き目を確かめる

水に溶けて、安全性の高い有機ゲルマニウム、Ge− 132の合成に成功した際の驚くべきエピソードがあります。それは、浅井一彦博士は、合成に成功した有機ゲルマニウム、Ge-132の水溶液を、自ら大量に飲んだというのです。要するに、自らの身体で安全性と効き目を確かめたというわけです。冷静に考えると、それまでは未知の化合物であったものを動物実験による毒性試験等も行わずに、いきなり、それも大量に飲むということは、到底考えられないことです。

たとえ、理論上は安全な化合物であることが一番分っている本人であったとしても、です。この当りのなりふりかまわない行動に、浅井一彦博士の有機ゲルマニウムによって多くの病気で苦しむ人々を救いたいという純粋かつ、強烈な情熱を、強く感じるものです。そして、それは、製薬メーカーが、ビジネスライクに、巨額の費用をかけて、新薬を開発するのとは、ある意味、次元の違う“熱さ ”のように思います。それは、その頃の浅井博士をとりまく状況を想像してみればすぐに察することが出来ます。

★石炭産業の衰退に伴って困窮を極めた(財)石炭総合研究所の維持

Ge− 132合成に成功した頃は、ほとんど(財)石炭総合研究所は破産の危機にありました。昭和30年代半以降、石炭産業が斜陽化し、元来、浅井博士は石炭の組織学研究が本職で、所長を務めていた(財)石炭総合研究所は、炭坑会社からの技術料が主たる収入源であったことから、研究所の経営は逼迫し、浅井博士の私財で補填し尽くしても、その維持は困難を極めていたからです。

考えてみると、たまたま、石炭にゲルマニウムが含まれることが判明したことから、当時の国策もあって、ゲルマニウム製造の国産化研究に携わり、さらには、人体への有用性が伝えられて以降、有機ゲルマニウム化合物研究に至るわけですが、そのような流れは、決して、単なる目先の損得勘定では理解しがたいものであったことが分ります。それは、石炭産業が衰退し、研究所の運営が困難になったにもかかわらず、有機ゲルマニウム化合物研究にこだわって、開発に成功するまで、なんと、 10年余りかかっているからです。その間、企業からのオファーにあったようですが浅井博士は断っていることからも、博士の有機ゲルマニウム化合物にかける思いが半端なものではなかったことが分ります。

★(財)石炭総合研究所から浅井ゲルマニウム研究所へ

そのような状況で、浅井博士は極度の疲労と過去の怪我の後遺症からほとんど寝たきり状態であったのが、有機ゲルマニウムの水溶液を飲んだことから、健康を取り戻すことになるのです。まさに、自らの身体によって、Ge− 132の安全性と効き目を実証したことになったわけです。

すでに(財)石炭総合研究所は、つぶれ、日本碍子が引き取ったものの、引き続き理事長職にあった浅井博士は、この有機ゲルマニウムを世に出すべく、本格的な研究に邁進するため、職を辞し、浅井ゲルマニウム研究所をスタートし、 1975年、株式会社浅井ゲルマニウム研究所を立ち上げることになります。

有機ゲルマニウム化合物、Ge− 132の歴史は、このように始まったのでした。

 
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